セルトキニォセの言葉

ニコシアからリヨンへ亡命した政治活動家、オシワオ・セルトキニォセの言葉を発信します。

利他顔 無事

察してほしい。逆さから読むと自分語りです。

今回も.........雑記集です。

 

・俺に関係しないお前が好き

ブコメ大好き太郎としてあまりにも有名な無免(?)なわけだが、主人公に感情移入して読むわけではない。

FPSじゃない。完全にその空間の窒素くらいの感じで読んでいる。いわゆる「壁」ってやつだろうか。

元々粗探しをされ続けて、それが体に染み付いているのか、他人の非ばかり目がいってしまい、自分に実生活で関係する人間の大体を「メンドクセー奴」「キメー奴」など、失礼なレッテルを貼ってしまう。したがって、自分に社会上関わっている人間に首ったけになるほどのめり込んでしゅきぴ♡になる心のゆとりがないのである。

だからラブコメはいい。俺に全員関係ない。

俺の名前も俺の住所も俺がオタクであることも俺が欠陥であることも俺が楽器持ちであることも俺が顔面ニホンザルであることも、彼女らには関係ない。桜沢墨にも、セルニア=伊織=フレイムハートにも、鶫誠士郎にも、北大路さつきにも、俺という存在は関係がない。

だからこそクッソ好きで、余計な感情なく読める。脳の処理をサポートするため身体が震えたり貧乏ゆすりをしたり顔を歪ませたりするが、めちゃくちゃ真剣に読める。素晴らしい。

だが、なんかそういう人間が全てではない。なんかFPSで読んでいる人々が多いらしく、そういう人たちは自分が感情移入できるだけの人生経験やら度量やらを持っているっぽくて素直に素晴らしいと思う。皮肉抜きで、人生がうまくいくと思うので頑張ってほしい。

が、当たり前の顔して「君も同じグラフ上にいるでしょ?」みたいな話のフッカケをするのはやめてほしいな〜.......と思う今日この頃である。

 

・お前を不快にする

ミニブログの使い方として最悪な使用方法は、正論のバリケードで身を守りながら、あらゆることに対するネガティヴ発言を垂れ流すことだと思う。改善策の提示を話の尻に持ってくると、発言を「建設的なもの」とすることができるので、カップスターの塩並みに後味がスッキリになるのだが、オタクはそういう手間をも省く。

「メタってる俺、カッコい〜w」ってなりたいだけだから。論じるのではなく飛ばしたいだけだ。何かを守るために銃を持つのではなく、とりあえず威勢をつけるために銃に頬擦りするようなものだ。

その勢いが過ぎたユーザーを見かけると、たまに「ティーンを過ぎて尚、なんと情けないインターネット使用だ。」と思ってしまう。

不潔だなぁと思うが、いいんではないか。見る分には面白い。動物園の爬虫類コーナーみたいで。

もうちょい俺もそういう使い方をしたいし。

本物が欲しければ

本物が欲しければ

 

・純愛好きはやはり異常者

USのラッパーが「クラブでアガりたいのにリリカルな重いやつかけられても困るんだよな」みたいなこと言ってたけど、純愛でシコるのもそれに近い気がする。

純愛というのは、人権思想と結びついている。互いに共有されるべき権利を相互に認識し、その上で肉体的な交渉へ至る。あまり動物的なものではないのだ。純愛のキーワードは「自由意志」なので。

当然の話をするが、自由意志はフィクションの概念である。それっぽい事象はあるが、神経回路の生理学的作用に過ぎず、そこにキリスト教的価値観を付与しただけのことだ。なので、純愛というそのものがエグいほどのフィクションなのだ。

現実離れしまくっている純愛でシコりまくるのは、普通の価値観を持った真面目な2年目サラリーマンがLでブッ飛んでしまった状態と同じくらいヤバいと俺は思う。マジで。美少女しかいない島と同じくらい非現実的な設定なので。

そう考えると、NTRだと凌辱だのでシコってる連中の方がまだ血が通っているような気がして、なんだか背中が寒くなってしまう。怖いねぇ、マン汁の次は、熱いホットミルクが怖くなっちまった。

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・褒められた趣味

褒められた趣味を持つことは、その人間の格を引き上げるのだろうか?問題は、意外に論じられない。

趣味というのは、大体の人間は2-3個のうちに収まる。理由は単純で、その方が安定したコミュニティ形成に役立つからだ。アニメなんてわかりやすくて、オタクとの繋がりがパパッとTwitterで形成されて、気がつけば5年くらいずっとオタクと絡み続ける。そういうのはきっと、身に覚えがあるだろう。

そういった、固定された趣味が「褒められた」ものであれば、「褒められた人間」なのだろうか?

例えば、Aさんが幼少期からフルートを習い続け、フルートによってジュニアオケや進学先の大学内のサークルなどの同年代のガキ(後の大人)とリンクする。一方、同じ歳のBさんは幼少期から地質学の本を読み続け、地質学によって化石研究クラブや進学先の大学内のサークルなどの同年代のガキ(後の大人)とリンクする。

この両者に人間的な違いはあるだろうか?

結局、その人間の性質はそいつの倫理観に結構な割合が影響しているので、その倫理観に趣味が影響を与えない以上は問題にならない。しかし、アニメやドラッグ、古典やニューエイジに人格を揺さぶられる程度の人間は、何を与えられても揺さぶられるので、文化と関係がない。

ともなれば、「褒められた趣味」(とその逆)というのは、道具である文化に人格を揺さぶられてしまう程度の弱者が作り上げた馴れ合いカス概念なのではないだろうか。

今日も俺は悩む。文化に清濁はあれど、善悪も貴賎もないのに、勝手にそれをつけようとするエリート/反エリートの闘いに。

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・「大人になりたい」

昔、吉祥寺のバーで葉巻を吸っていたときに隣のおじさんに言われた台詞があった。

「シガーは女と同じだ。好きよ好きよってチューチュー行き過ぎると、アンタなんか嫌いよッ、って突っぱねてしょっ辛くなっちまうのさ。だから、ちょっと引く。いい味になったところでチトこらえて熱を冷ますんだ。そうすりゃアッチから旨味を味わせようとしてくるからな。」

キモッと思ったものだが、望めば望むほど手を離れるものは確かにあると思う。

俺は「大人になりたい」と願い、様々な背伸びをした。いろんな大人と絡んだし、いろんな大人の話を聞いた。その上で、大人らしい人間とただ歳を食った人間の差を少しだけ明らかにできた。

ただ歳を食った中身中学生が圧倒的に多く、皆「大人に憧れて」いた。自分は大人になれないという前提で憧れていたのだ。というか、憧れることにこそ意味があるというような口ぶりでそういう話をしていた。

恋に恋する奴は恋ができない、というのはよくいうが、同様にして、憧れに憧れる奴は憧れへ近づくことは出来ないと思う。大人らしい人間たちは、「大人っぽい」とかそういう言葉にさほど興味がなく、熟すべきことを黙々とやり、自らに合う周辺器具を揃え、それ以上の装飾はしていなかった。

悲しきかな、バーで出会ったマスターは大人らしい人が多かったが、バーで出会った客は精神が幼い人が多かった。若々しいオトナは1割いるかいないかで、あとはミーハーだらけだった。

とにかく、不透明すぎる未来の理想ばかり考えず、確実な明日を着実にこなすことでしか大人にはなれそうにない。人間の成長は常に徒歩だ。寿命が伸びても、成長のリニアモーターカーは開発されない。

 

9月号でした。書き溜め方式なので、一気に書いているわけではなく、見るたびにちょこちょこ推敲しています。

自由にやらせてくれ。以上。

 

[終劇]