セルトキニォセの言葉

ニコシアからリヨンへ亡命した政治活動家、オシワオ・セルトキニォセの言葉を発信します。

記ッ雑ニア

ちなみに行ったことは

ありません。

カドカワのマンガ建物みたいなやつめちゃくちゃ早大学院っぽくて笑っちゃった。同じようにオナニーしても臭いでバレないんかな。

おー\シコシコシコシコ/‼️あーやば、ぉお、東所沢の風を感じながら..........

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説教嫌い

 少年時代、説教を受けることが嫌いだった。とにかく嫌いで、そのおかげで事あるごとに稚拙な嘘をついては、重ねてまた怒られた。

 今となっては、落ち度を真正面から受け止めるだけのメンタルがなんとなく出来てきたので、正当な説教は仕方ないのでしっかり耳を傾けるが、それにしてもパワハラ説教が嫌いだ。死体蹴りをするんじゃない。俺の少年時代は死体蹴りが横行してて、小学生の先公も柔道の先生も、両親もそうだった。

 説教は「0:100」になってはいけない。この世にヒャクゼロの善悪はないからだ。微弱だとしても、被害者には責任がある。加害者だけに全てを背負わせてはならないのだ。増して、説教サイド被害者に20/100以上の責任があるならば、その被害者にも修正の責任がある。そのことを知覚していない大人があまりにも多過ぎたのだ。

 ここまでは「受ける」話。俺は「する」のも嫌いだ。むしろ、する方が嫌いまである。

 本来の意味での説教は、期待だ。より善い方向へ失態を晒した者を導き、それを見守る第一歩なのだ。説教は、やりっぱなしで終わらない。自由権規約委員会だって勧告の後にはフォローアップがある。

 継続した温情を持ち続ける。そんなもん、人間が好きじゃないと無理だ。

 じゃあ八つ当たり怒鳴り散らしは?もっと嫌いだ。相手に憎まれる上に、憎しみは伝播して連帯を生むからだ。何かに八つ当たりしてスッキリしたところで、カッとなって頭に血が昇ると脳に炎症が出来るし、怒鳴ると喉が痛いし、殴ると手は痛いし、何をやったって損害が発生する。後にいいことを残せない。

 そうなると、誰かに説教を任せるか耐えるかになってしまう。損している気は当然するが、積極的に人間関係に参加するより、この方が幸福度が高いので仕方ないのだ。

 俺含めて、もっと人間が理知的になればいいのに..........。

 

ゲーム嫌い

 始点・終点があるゲームはストーリーの上に成り立っている。ゲームはストーリーこそが核であり、ゲーム性はストーリーを際立たせるための装飾品でしかない。

 MGSや初期バイオなどをある程度やった経験があるので、ゲーム性について否定する気はない。それはそれで没入感を深める良いツールだ。一定の作業で脳が喜ぶと、ストーリーの飲み込みも良くなるからだ。

 問題は、ゲーム性が低いゲームがシナリオを出し惜しみしがち、という話だ。

 作業の複雑性が確保されているなら、脳はしっかり喜んでくれる(アンテなど)。しかし近年のものに多い、ガチャだのポチゲーだの、あのような単純作業で喜ぶわけがない。あと育成のために金を出させようとするのも気に食わない。7000円で完結させろ。

 追加すると、ゲームプレイ中にボイスをオフに出来る機能つけろ。特に音ゲー。女性声優の鼻声はストーリーで嫌ってほど浴びるから良いんだよ。それはゲームの質に関係ないだろ。

 こういうイライラが重なると「ゲームどうでも良いからシナリオ寄越せよ」という意見になってしまうのだ。ゲーム性の低いゲームは、シナリオに自信がないので、こうやって誤魔化しを何枚も挟んでいるようだが、文化闘争者にそんな小細工は通用しない。

 舐めやがって。

 

無工夫嫌い

 「それもっと工夫すればストレスかからないじゃん」ということを、本当に見かける。

 家では、スリムデザインをかなり推し進めているので、部屋はガチで綺麗になった。が、それ以外の面ではデザインが上手く通過せず(子供部屋おじさんだから)、頭を擡げている。

 非効率な初期設定を変更すれば、よりストレスの少ない生活が待っている。そう考える人間があまりにも少ないのは、結局のところ敗戦間際の根性神話が高度経済成長というネクストステージで上手くいってしまい、永遠に教育機関で継承されてきたからだろう。特に初等教育機関で。

 間違いではないんだよな、ガッツは重要だということは。ガッツは推進力で、どんなに良いプランもガッツがなければ進まない。だからガッツを教育するのはおかしい!とは言わない。

が、「ガッツだけが重要なんだ!」みたいな思考停止を前提にするのはおかしいだろ?という話だ。

 みんなも環境や行動のデザインには気をつけようねッ。

 

議論嫌い

 言葉がデカい力を持つと勘違いしてる輩が多い。俺も、高学歴モヤシサラリーマンの家で育ったらそう思ってただろう。

 そんな事実はない。言葉が通じるのは言葉がわかる人間だけだ。言説など油絵の中のメメントモリと同じだ。言葉そのものが通じないから、今、令和、スマホ時代に「態度で示してよ!」という言葉がラブコメで通用するのだ。

 言葉は根幹であり、それを「翻訳」する必要がある。態度、という、表情や仕草などを用いた演技でそれを行うことがあれば、ときに暴力が登場することもあるだろう。もっとソフトに、可視化や実体化という手段も今では選択されている。

 人間は「易き」に流れる。それは生物として仕方がない。それは話者も例外じゃない。

 今までは「通じさせる」サイドばかり話したが、「通じる」、つまり言葉を受け取るにも不断の努力を要するという問題がある。言葉の意味や内容を解するために、普段から言語感覚を読書などで養ったり知識をネットや論文で仕入れたりしなければ、アンテナは素早く錆びる。

 人間は言語が話せるというが、こうも言語に不向きなところを見ると、やはり猿なのだなぁと感心する。人間が愚かなのではなく、賢い存在などモデル上でしか有り得ないわけだ。おもちれぇーーーーーーーーッ‼️‼️‼️⁉️

 

努力嫌い

 どんな不味いものも、カレー粉をかけると、なんとなく食える。どんなダサいものも、努力をかけると、なんとなく美しく見える。

 だが、味の濃い調味料は本質を見失わせる。努力という麗句は、泥臭い惨めな定着作業を湖の底へ沈める。

 努力は苦悶に先立たない。ひたすらに惨めな思いをし、その中で砂金を這ってでも掴み、煌めきを夢見る。それは運動能力も知能も同様に言える。初めはバコーンと上がる。だが、レベルが上がるほど少ししか上がらず惨めな思いをする。それでいてゴールがないので、自分が折れないと永遠に走り続けることになる。

 それを知っている人間は「努力」なんて軽々しく口にしない。そんなわけで俺は努力という言葉が嫌いだ。

 

生誕感謝嫌い

 もうそろそろ年齢を重ねる。世間ではこういうタイミングで祝い事がなされるが、考えれば考えるほど呪われた日にしか思えない。

 Happy birthdayは、HappydayであってHappy birthではない。生まれたことの祝福は産んだ人々の仕事であり、生を受けた本人はその出生を尊ぶ必要はない。現に、筆者無免は「生まれてよかった」など一度も思ったことはない。

 感動は生まれなければ出来ないが、それは出生の価値を保証しない。それを言ったら苦難だって出生しなければ受けないからだ。特に少子高齢化によって出生数より死亡数の方が必然的に多くなるので、出会いの別れは今後重たくなっていく。人との死別の度に「生まれなければこの悲しみはなかった、ならば生まれなければ..........」と思う悲哀を思えば、生を受けることは祝福より災禍なのではないか。

 また、生まれたことの価値付与として「人には生まれた意味がある」みたいな使命論がある。これに関しての論理的に正しい叙述は雑記ゆえ控えるが、一体全体、使命論の上ではシリアルキラーはどのような使命を携えて生まれてきたと説明するのだろう。

 とにかく、生まれてきたことをプラスに感じていない。が、勘違いしてほしくないのは、親には非常に大きな感謝の念を抱いていることだ。こんな駄目次男を育ててくれたことには、感謝してもしきれない。

 だが、それとこれとは別だ。始めることと続けることは別問題なのだ。

 まあ、せっかく生まれたのだから、居なくなったときにより多くの人間に迷惑がかかるように、なるたけ大きく貢献しようと思う。「こんな時にアイツが居れば..........」と生存者に思わせて、ザマァ見やがれ!怨むならテメーの親と交尾システムを怨むんだな!と生者を馬鹿にしながらこの世を去りたい。死んだ祖父を想いながら、こんな駄文を書く、誕生日の1ヶ月前。

 

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忙しいんだけど、踏ん張りすぎると壊れるので適度に寝てる。

 

オナニーするたびに体壊れてるけど。

 

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