8番目or10番目
ローマ暦をベースに今の月の名称作ったやつ、流石に頓珍漢すぎる。
こんにちは。アニメを見るようになってから人生が楽しくなってきた無免です。
10月分の雑記です。今更書くことではないですが、全部無根拠でデタラメです。本気で書いたら雑記にしません。それではどうぞ。
スラッシュを挟んでいろんな事項を連ねる自己紹介欄スタイルがある。オタクがなぜアレをオモチャにしているのかが未だによくわかっていない。
アレは、まだリンクしてない身内候補とリンクするための撒き餌であり、かなりの社会性発揮行為なのだ。言ってしまえばヌメロンみたいなものか。テキトーにジャカジャカと要素を投げつけて、ドンピシャ当てはまったらイート、全く同じじゃないけどジャンルが同じならバイト、みたいな感じ。こうして文面に起こすと、そのしょーもなさがよくわかるだろう。
それを、換骨奪胎して適当な単語を並べるのがオタクプロフィール遊びの一つになっている。まあ趣味なんて人それぞれなので、イチャモンつけるわけではない。が、オタクは常人よりパンチライン志向の強い存在だと思っている節があるので、納得もなかなか出来ない。
オタクは短文で脳を刺激しろ。作文から詩吟へ。君たちは歌の翼を持っている。
・「キモい」ではない
キモオタという表現があるが、オタク内のキモいのハードルが大分落ちてきている気がする。
オタクの中のキモいが褒め言葉化している状況が腑に落ちず、ダラダラとインターネットをしている。キモいことは、よく考えてほしいのだが、悪いことだ。それが価値を発揮することはあってはいけないのだ。規範とか、というより、もっと根源的な危険信号が「キモい」なのだから。
そんなキモいという概念ですら、旨味に変わる魔術装置がある。集団だ。
集団は、小麦粉をヘロインに変えることができる。
オタク集団心理によって集団内で「キモいことは面白いことだ!」という風を起こして、それを集団内で増幅させることで、キモいというシグナルがどんどんポジティブなものへと変換されていく。そしてそれが掲示板やら同人即売会やら、いろんなコミュニケーションの機会ごとに増幅し、多分そういう感じで「キモい=褒め言葉」というのが定着していったのだろう。
要はオタク内のキモいというのは、多数からラバースタンプを押されているOKラインの「風変わり」でしかない。愉快な奇怪なのだ。
じゃあかつての「キモい」とはどこへ行ったのか、と言うと、多分「みっともない」がその要素を食って範囲を広げたのだろう。僕は、そういう点で「みっともない」にカテゴライズされそうだ。上等。僕は原義的な意味でキモいし、同時にみっともない。手垢のついた身内ノリのモノサシに収まるよりよっぽど価値のあることだと思うけどね。
・期待
他人に期待するな、という旨をかなり前に書いた気がするが、あいも変わらず他人に自分勝手に期待して勝手に裏切られてる人間が多い。
期待せず、あえて意外性を持ってこさせる方が人生は絶対楽しくなるはずなのに、何故にそんなに期待をするのか。馬鹿なのか?
まあ人間が好きだからなんでしょう。羨ましい。私もそうなりたい。
・アニメから降りろ
かつてアニメから降りたことがある。高校3年〜大学2年の間はだいたいアニメを降りて現実で忙しく動いていた。だが、そうすればするほどに妄想は俺を魅了し、気がつけば閉店作業をしている間に目の前を光る蝶が飛び、目を擦れば窓ガラスの奥に壁を這う大きなクモが見えた。シラフで。ちなみにそれは一番疲れてたときに見た。
あのとき、自分は「こっち」じゃないと気づいた。アニメ側、非現実の王国サイドの人間で、真に「生まれた次元を間違えた」人間だということを再認識した。人間嫌いな理由も頷ける。妄想癖というか、多分別世界の情報が俺のノウミソというアンテナを通じて知覚、それが器官を支配しているのだ。
そうではない目の前の貴方は、間違いなく良い人生を送ることができる。
だから、アニメから降りろ。こっちに来てもエル・ドラドはない。お前に囁くオタク達は、あの世にお前を連れて行こうとする悪霊だ。駄目だ。行くな。地獄に連れて行かれるぞ。
君は輝かしい未来に向かっていくチケットをまだ持っている。焦らず未来を見つめ、自分が何者で、どう進むべきかをしっかり考えろ。
・倍速
アニメを普段2倍速で見てる。講義が2倍速で余裕で分かるので、アニメでも使えるのでは?と思ったら、普通に使えた。
演出とか間とかの楽しみを重んじる(クラシック音楽が好きなので間とかにうるさい)んだけども、それも込みで現状は見られている。どうしても等倍で見たいものは、アンコールして見ている。現状で等倍の打率が高いのは魔女の旅々。
こうしていろんなものを倍速だったり1.3倍速だったりで摂取していると、思うことがある。
ライブって倍速で楽しめないのかな。
ライブの間の伸びが本当に苦手なので、ライブを倍速で楽しめないかな〜というのをとにかく思うようになった。速度が変わるだけで、本質的な変化はないので、ライブの楽しみは損なわれない。なのに、そういった言説が本当に浮上しないので、不思議だな〜と思う。
顔とかに興味がないから、というのは大きい。ぶ厚い化粧をずっと見る趣味がないので、女が間延びしてモタついているとき「さっさと歌ってくんねーかな........」となってしまう。
まあお気付きの人も多いと思うが、こんなんだから現場に行かなくなったのだ。
今日も俺は加速する。加速しては今日も置いて行く、心を残したままに。
以上、何だこの現状は.........、「グヮチ」は琉球の手を離れて本土人に収奪された。
大事なことはみんなが使うことではない。自分がやってて楽しいかだ。
それこそが唯一にして至高のポイントだ。